トークコーナー

ベートーヴェン交響曲第1番について 前編

☆オケでは、演奏会でとりあげる曲を団員がより深く理解できるように曲の紹介をしたり、分析的なアプローチをしたりする練習企画係という係があります。
今日は、ベートーヴェンの交響曲第1番の指揮者を務める団員の宮崎将一郎さんと練習企画係で打合せをしましたので、その内容をご紹介していきたいと思います。

宮崎将一郎さん 練習企画係

No.1 ベートーヴェンのメッセージ


練習企画係
この曲については、すでにいろいろな演奏家、研究者が興味深い指摘をしています。
例えば、一楽章の序奏が凝って作られているということは、作曲家の池辺晋一郎氏もご著書(『ベートーヴェンの音符たち 池辺晋一郎の「新ベートーヴェン考」』)の中で指摘されています。また、指揮者のバーンスタインは、この曲の三楽章を取り上げてこの曲の革新性を説明しています。宮崎さんはどんなこの曲のどんなところが気になっていますか?

宮崎
まず、私のようないわゆる音楽家ではない人間の話なので、偉い偉い先生方の話とは全く違う視点であることが大前提です。2018年の日本でいろんな経験をしながらフツーに世間を生きる人間として、ベートーヴェンの音楽をどう感じるか、どんなところに引っかかるかという、一緒に演奏する☆オケのメンバーや聴きに来て下さるお客様と同じような目線で見ているということでお聞きください。

練習企画係
常々宮崎さんはベートーヴェンの魅力を力説していますよね。もちろん、☆オケ団員も同じように興味をもっているから延々とベートーヴェンの話が続くのですが…。

宮崎
はい。基本、音楽はどれもそうだと思うのですが、特にベートーヴェンは、クラシックの作曲家の中でも「こうだよね!こうじゃない!?こうでしょ!こうなんだー!!!」と訴えかけてくるのが聴こえてくるというか、それをベートーヴェンからのメッセージとして受け取ることができるのが大きな魅力だと思っています。ベートーヴェンの贈り物とでもいいましょうか・・・。
たとえば、演奏していて、ベートーヴェンから”agitato!!”(激しく!!)と言われている感じがするところがたくさんあると思います。楽譜には書いてないのですが。こういうのがベートーヴェンからのメッセージです。アンテナを全開にしていくと、本当にいろんなメッセージが聞こえてきます。


彼のメッセージは、単なる思い付きの産物ではなく、言葉ではなかなか表し得ないような、深い感情や人生の普遍的な物語になっていると感じます。こうしたスケールの大きい世界が、音楽だけで、言葉も国も宗教も人種も世代も超えて心にダイレクトに伝わってくる。だから、本当にベートーヴェンは偉大だと思うわけです。そして、これが受け取れるということは、ベートーヴェンが何を考えて、どんな思いを込めて音楽を作ったのかを、楽譜や音を通して私たちが受け取っている、ということですよね。

ベートーヴェンは遠い遠い存在ではなく、同じ人間で、喜怒哀楽を感じ、どんな音楽を作って人々の心を揺さぶるかに日々向き合い闘っていた人物なのだということが分かります。
日々何かに向き合い闘っているのは私たちも同じです。ですから共感できるところがたくさんあるはずなのです。
このことを念頭に楽譜と対峙するだけでも、演奏への姿勢や出てくる音楽は大きく変わると思っています。長くてすいません。

練習企画係
思う存分語ってください(笑)。では、宮崎さんが受け取った「ベートーヴェンのメッセージ」を聞かせていただけますか。

宮崎
はい。では、僭越ながら・・、大きなところでは以下の点です。
(1)ドミソとソラシドレミファソ
(2)ひとりぼっちの二楽章
(3)ナニコレ、余計じゃない?
(4)三楽章のトリオ(中間部)はなぜこんなに単純か

No.2 (1)ドミソとソラシドレミファソ


練習企画係
では、(1)からお願いします。ドミソはハ長調の和音、ソラシドレミファソとはト長調の音階でしょうか。

宮崎
いや、もっと単純に、この曲には全曲を通じて何か所もドミソやソラシドレミファソが登場するという事実です。

練習企画係
宮崎さんがそこに着目する理由はどんなところにありますか。

宮崎
シンプルで色のない素材で音楽を作っているという意味で気になっています。ベートーヴェンはこの曲の作曲時点で、すでに多くの曲を作っています。例えば有名なピアノソナタの悲愴もすでに作曲していて、書こうと思えばもっと情緒的なメロディーを軸に交響曲を作れたのだと思います。そこをあえて、シンプルな素材で作ったというところにベートーヴェンの意図があったと思います。
このこと自体は多くの専門家も言っていて珍しいことではありません。大事なのは自分がこの曲に取り組んで真っ先に感じたベートーヴェンのメッセージがこのことだったという事実です。なぜこういう素材を使ったのかな、というベートーヴェンの狙いや思いに少しでも近づけるとよいなと思っています。
ベートーヴェンは相当な理想に燃えていた方だと思うので、交響曲とはこうあるべき、みたいな何かを考えていたのかな、とか思いを巡らせています。

No.3 (2)ひとりぼっちの二楽章


練習企画係
次に(2)はいかがでしょう。「ひとりぼっちの」と表現する意図を教えてください。

宮崎
冒頭に着目してみてください。いつもは伴奏やサブでメロディーを弾くセカンドヴァイオリンが、8小節の間ソロでメロディーを演奏します。8小節と文字にしてしまうと短く感じてしまいがちですが、まずは演奏を聴いてみてください

練習企画係
確かに、相当な時間、ソロでメロディーを演奏していますね。

宮崎
モーツァルトの交響曲40番の2楽章も似たような感じで始まります。しかし、こちらは聴いてみればわかるのですが、すぐに他の楽器も入ってアンサンブルになります。

聴いてみて、どんな印象を持ちますか?直感的に。
私の場合、今回シーズンが始まる前に久しぶりにベートーヴェンの1番の2楽章を聴いた時に、「うん?どこかで聴いたような」と感じたのです。そして、ちょっと考えて「あー、モーツァルトの40番だ」と思いました。でもソロが長いから「あれ、違うな。」と。そしてこのメロディーを口ずさんでいると「もっと個人的な、ひとりで歩いている感じかな。」「見上げてごらん、夜の☆をーみたいな?」となっていった。こういう意識せずに音楽から感じたことを大事にしたいのです。今の自分の心が感じたことですから。

練習企画係
なるほど。宮崎さんは、常々、自分に引き寄せて、自分の人生経験という引き出しと照らし合わせて、曲に向き合っていくことが大事と☆オケ団員に訴えています。その意味ではこの2楽章はどう捉えられるでしょうか。

宮崎
ベートーヴェンがひとりぼっちで歩いていく。その歩みを、彼のまわりの人々や、自身の体験や感情が彩っていく。最後はひとりであっちへ行ってしまう。そんなイメージを持っています。

私は結婚して家族を持つようになって初めて、家族という身近な人たちがいかに大きな存在であるか感じるようになりました。生涯結婚せず、子供がいなかったベートーヴェンですが、ベートーヴェンにも父母、兄弟という家族がいたわけです。そして親元を離れてひとりでウィーンに行ったわけですから、家族がいる幸福や喜び温かみをかみしめていたはずです。そして、彼はこの曲の作曲当時すでに母親を亡くしています。自分を支え、応援してくれる家族を失うという大きな喪失感を体験しているのです。さらに、作曲当時すでに耳の違和感を自覚していたという話もあります。悲しい時に悲しい音楽を書く、とかそういう単純な話ではありません。魂が揺さぶられるような体験がベートーヴェンの中に、いろんな引き出しとして既に備わっていて、それを素材にこの楽章が作られているのかもしれません。ベートーヴェンの心の中を覗いているような音楽と感じています。

【後編 (3)ナニコレ、余計じゃない? (4)三楽章のトリオ(中間部)はなぜこんなに単純か】→

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